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2013年6月17日 オピニオン 毎日新聞掲載


mainichi201306 憲法の精神の風化を憂う

無職 一戸 稔(86) 千葉県八千代市

1945(昭和20)年3月の東京大空襲、硫黄島玉砕、その後沖縄は戦場と化し、8月に広島・長崎原爆を経て、日本はポツダム宣言を受託し敗戦が決まった。新憲法が公布されたのは1年後の46年11月3日である。

私にとって新憲法は新鮮でまぶしい存在だった。特に平和主義に徹するとする前文と戦争放棄をうたった第9条は、キラリと光る珠玉のようだった。何百万の同胞の貴い命と引き換えに世界に向け胸を張れる唯一の誇りが新憲法であった。

終戦から68年、戦争を体験した年寄りは今やごく少数派だ。戦争を知らない偽政者により改憲が次第に声高な世の中になって、私などは戸惑うばかりだ。最近の一つの救いは8日の本紙「保阪正康の昭和史のかたち」での安倍晋三首相の占領憲法意識は「平和求めた先達への侮辱」ではないか、というご指摘だ。まさに我が意を得たり、もろ手を挙げて賛意を表したい。

 

憲法の押しつけ否定論に納得

自営業 杉原 由美子(57) 富山県射水市

本紙8日の「保阪正康の昭和史のかたち」で、安倍晋三首相の「占領憲法」意識について論評されているのを読み、大切なことを学びました。憲法9条、戦争放棄の条項は憲法草案作成当時の幣原喜重郎首相の意向を強く反映しているというのです。

幣原は戦前の外交官であり、国際協調外交に努力した外相でもありました。連合国総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥の証言によると、1946(昭和21)年1月、幣原は「唯一の解決策は戦争をなくすることだと信じる」との意見を伝え、マッカーサーは全面的に納得したというのです。

平和憲法のもとで育ってきた私には、とてもうれしい情報です。平和憲法は決して押しつけられたものではなく、日本人が自ら立てた誓いと思えたからです。

偽政者にとっては9条を含め憲法の理想の高さが重荷になるのでしょうが、国民にとってはこれほど誇りになる憲法は世界に類がないと確信しています。

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「保阪正康の昭和史のかたち」 画像をクリックすると拡大します。

「科学の原理と人間の原理」①

〈講演録要旨〉

「科学の原理と人間の原理」

~人間が天の火を盗んだ―その火の近くに生命はない~

原子力資料情報室代表
故 高木仁三郎さん

科学技術の肥大化による危機

科学技術は、元々人間の営みのごく一部、それも人問の頭脳の活動のごく一部であった科学、ないしはそれを適用した科学技術というのが、その部分だけが異常に発達してしまって、自然なる生き物としての人間、いち生物としての人間の原理、生命の原理、生きることの原理とかなりかけ離れたところにいってしまった。 しかも一部の政治権力や資本によって戦争の道具に使われたり、金儲けの道具に使われたりというようなことが非常に顕著になり、肥大化したという面が否めない。

そうして人間が作り出したものが自然界全体を危機におとしめるようになってしまった。その一部としての人間、生き物としての人間そのものを危機におとしめている。そいう意味では、人間が作り出したものが自分の首をしめているという状態が、今まさに起こってきている。

 

科学者は麻疹する

30年程前に大学で原子核化学という放射能の勉強をした後、会社に入り放射能を扱う研究をしていました。まだ日本には原子力発電所が無かった時代で、これから原子力発電所を導入するにあたって、良く言えばその基礎研究をする、あからさまに言えば原子力は安全だということを証明する。悪く言えば何かあった時のアリバイ作りのような研究をしていた。そのころは原子力が人間にとって悪いとか、問題があるとは思ってもみませんでした。

当時は原子炉の脇で毎日仕事をして、取り扱う放射能や浴びた放射能はすごい量でした。ガイガーカウンターが振り切れ、ウンともスンとも言わない動かない領域に入る。そういう動かない領域で仕事をしているとこっちも麻痺してしまう。ちょうどガイガーカウンターと同じように人間がなってしまう。
科学者とか技術者というのはそんなものなのです。機械でものを見てるから機械が動かなくなったら自分も感覚的には動かなくなってしまう。

強い放射能を扱うから防護服や手袋、時には鉛ガラスの眼鏡という重装備ですから確かに疲れる。しかしプロだからこのくらいで負けてどうするという変なプロ意識が出てくる。ビビる若者には「そんなんで1人前になれるか」とからかう感覚にだんだんなってしまう。そういう世界になってしまうから問題が多い。 この仕事をやると安全ということをなかなか考えなくなる。卑俗な話、タクシーの運転手が一番安全運転をしているかというと、案外とそうでもなく乱暴な運転をしている。

 

企業の論理が優先

放射能には色んな分からない面があり研究をしたいのだが、会社は仕事の予定を優先し予定を狂わす研究をしだすと途端に邪魔者扱いをする。また、会社に都合の良いデータがでるとすぐ採用するが、都合の悪いデータが出ると抹殺する。都合のいい部分だけをむしり取って行く。

研究者はデータで勝負するが、測定器が勝負の道具であるがゆえ今度は測定器に縛りつけられる。精度のいい測定器ほどいい仕事ができるという発想になる。研究者は上司が何を言っても怖からないが、研究装置を奪われることにはものすごい恐怖感がある。したがって予算がないとできないので機械の道具になり、研究者はものが言えなくなってしまう。

科学者であるより前に人間であるはずなのに、機械に縛られデータに縛られ、ものが言えなくなり非常に人間が矮小化される。

 

放射能汚染に見る人間の業の深さ

 やがて会社を辞め、放射能の基礎的なこと放射能の原理を研究したく、大学の原子核研究所に入り教員となった。そこでわかったのは地球全体が人工の放射能で汚染されていることだった。海や山に行き放射能を測るとつい数年前の放射能がいっぱいでした。南太平洋の海底も日本国内でも人間が作り出した放射能の垢がハッキリ残っていた。

 どこへ行っても人工の放射能で汚れていることに驚きショックを受けました。人間のやっている業の深さに驚き、そのことを知らなかった白分に驚き、周りの人も知らない学問の分野であることにまた驚き考え込んでしまいました。

 そして決定的だったことは、海や山ではなく人里で放射能が見つかったことでした。多くは米ソの大変な核実験、フランス・中国の核実験の影響でした。実験室では驚かなかった私が人が普通に住んでいる里、魚が泳ぐ川、鳥が鳴く森で放射能を検出した時は身震いする程驚き大変なショックでした。

 実験室にいる時は科学者でプロだから慣れもあり驚かない。放射能は数字としか思わず私という人間全体として放射能を扱っているわけではない。 しかし、外の環境に出た放射能を測っているとそれでは済まない。科学者としての場を離れて、みんなが生きる場で一個の人間としての立場から放射能を初めて見た時、全然違った世界が見えてきた。今まで考えてきた放射能というイメ―ジと全然違った物が見えてきて身震いし「これはちょっと違うぞ!」「なんてことになったんだろう」と思い、自分の居る場所というのは何なんだろうと考えずにはおれなかった。

「科学の原理と人間の原理」②

人間として出発する

私の学問は、放射能を作って世の中に役に立つと宣伝し使ってもらう立場でした。世の中の進歩につながると信じて疑わなかった。しかし良かれと思って作った放射能が環境に出てしまっていることが自分の悩みの種になってしまい、科学者としての自分と人間としての自分との葛藤が始まったのです。

この問題を自分のテーマにしようと思うようになったが、これは我々の学問の世界では全く総スカン食うような話でした。環境の大事な問題だと言えば、あれはごみの問題だよとなるし、それは社会のやったことで、自然科学の問題ではないという話になる。それがまた、自分の地位とか研究費とか様々な問題が絡んできて日本に居づらくなりドイツへ留学して考えようとした。

けれど、そういうふうに物事を回避していくことが、結局この放射能汚染を生んでいくのだと思い至りました。そしてやっぱり放射能汚染の問題をやりたいという決断になりました。

自分たちが作り出した放射能が人間にとって何なのかということに責任をもたなくてはならないと。それは科学者として自分を自己規定する前に、まず人間としての自分という立場から出発したいというだけの話でした。

結局、大学を辞め、原子力資料情報室を始めました。その問題意識はずっと私が引きずってきたものですが、やっぱり科学の論理と人開が生活する原理というものとの間には、厳然とした違いがある。科学の方の論理だけでやっていく限り、これはどんどんどんどん人間の生きる原理からかけ離れてしまう。例えば、実際に人間が生きる現場で放射能を測った時に感じた驚愕。あの驚きというか、あの感覚がなくなった世界で科学をやったら怖い。百万カウントあっても千万カウントあっても驚かなくなってしまうところでやってしまったら怖い。それが唯一の原点です。

 

人間が天の火を盗んだ

核以前のものはどんな科学枝術も自然の模倣でした。例えば、飛行機にしても鳥の真似です。しかしどんなに素晴らしい技術を手に入れても、鳥のように少ないエネルギーであれだけ自在に方向転換し飛ぶ技術は持っていません。

ところが核の利用は、今までの実証的な科学の世界を越えた世界です。ここに決定的な違いがある。 西洋の故事に、プロメテウスが太陽から火を盗んできたという話がある。これがゼウスの怒りに触れてプロメテウスは罰を受けるわけです。これが非常に象徴的な事です。

まさに原子力というのは天の火を盗んだものだ。地上の火ではない。星が光っているのは、原子核反応によって光っているわけです。太陽が光っているのは、水素が燃えて水素爆弾と同じような原理だが、要するに核反応です。だから太陽に行けば放射能だらけです。熱によっても死にますが、放射能によって誰も近寄れないわけです。

つまり光っている星には絶対生命はない。その近いところにも生命はない。

宇宙に生命体のある星はまだ一つも見つかっていない。それほど地球というのは特殊な条件です。

どうして特殊な条件かというと、水がある、大気がある、磁場が働いている、太陽からの距離とか様々な要囚があるが、放射線に対して守られているということが非常に大きいからです。

地球が今のような形になったのは四十六億年前と考えられます。それまでは放射能が今よりもっと強かった。それが長い時間をかけて地球が冷めて、放射能が減ったからようやく生物が住めるくらいになった。

つまりせっかく地球上に自然の条件ができたところに、天上の火、核というものを盗んできてわざわざもう一度放射能を作ったというのが「原子力」です。ですから求めて非常に余分な事をしたと思う。天の火を盗んだ事に対してゼウスが罰を加えたというのは非常に象徴的な故事のような気がします。 やっぱりこれは天の火であって、作るべきではなかった。これに足を踏み入れた瞬間に、科学技術というのは新しい段階に入った。これまでは単純に地上にある自然の模倣であった。今度は地上の模倣でなく、天上のものを模倣するようになったのです。 地上の生命には、地上の生命の原理があり、地上の生き方の原理がある。その原理と全く異質なものを、人間の頭脳の発達によって天上から盗むことができるようになった。これが広島、長崎の悲劇、それからそれ以降我々を悩ます原子力の問題という形でつながってきているわけです。

「科学の原理と人間の原理」③

許される科学技術と許されざる科学技術

人間には地上の人間の原理の中で許されるべき科学技術とそうでないものとがあるということを我々はちゃんと知る必要がある。これは原子力だけではない。

例えば今、バイオテクノロジーということで遺伝子を相当いじり出した。それから医学も相当進んできて、人間の臓器を他の人の臓器に置き換える事がかなり出来るようになった。人間の「死」ということも脳幹の死だけで人間の死を認めてしまう。それはまた臓器移植と結びついて来るが、そういう色んな事が起こって来た状況です。

これは明らかに今までの人間の自然な死とか自然な生命と違う原理を持ち込んでいるのです。

西洋の科学技術の伝統、私自身が教えを受け学び育ってきた伝統の中では、人間というのは基本的に頭脳なんです。科学技術は本当に頭の中だけで膨らんだものです。自然な生き物としての人間の全体というこ
とを決して問題にしない。非常に頭だけで肥大したものです。

臓器を取り換えることが出来るようになった今、手を取り換え、足を取り換え、臓器も取り換え、全部取り換えて、その人は同じ人間なのかという問題にぶつかる。西洋的な考えでいくと脳だけ元の人の脳だったらあとはどれを取り換えても元の人です。

「果たして本当にそうだろうか。」というと、どうも俯に落ちない。そういうふうに技術というのはかなりとんでもない所に行ってしまっている。それに対して人間の側はほとんど追いつけていない。

 

核の安定の上に成立する生命

私達が生きている地上の生命の世界というのは、核の安定の上に成り立っている世界です。それは化学の変化の世界です。人間の体の機能は化学変化の世界です。人間の体の中で燃えるとか酸化するとかはみな化学変化でやっているわけです。遺伝子も化学物質で化学変化の世界です。核の変化は一切関係してこない。原子の外側の話であって、原子の内側まで関係してくる話ではない。これを核の安定という。

核そのものが安定しているという事が生命の基本的な基盤です。平たい言葉でいうと原子の安定と言ってよい。

ところが原子力というのは、まさに核の安定を崩すことによってエネルギーを取り出す技術です。核の安定を崩さない限り原子力は成り立たない。私はここに一切の原子力の問題があると思う。

弁が開くとか開かないとかいう問題は派生的に出て来るが、それが本当の問題ではない。

私は、今はまだ安全が確立しないからダメという議論はとらない。原理的に人間の生きる原理と相容れない、その点が一番大きいのです。

 

核の火は消せない

核の火というのは、そういう意味で消せない火です。原子力発電所を運転する、停止する、これは制御棒の動作とかいろんな技術的な動作によって行うことができる。しかし原子力発電所を止めた所で原子の火は消えたわけではない。

だから問題が大きいわけです。燃料棒の中に死の灰がいっぱい残る。死の灰というのはまだ熱を発生し続けているのです。私は死の灰というより熾(おき)であると言っています。灰というと冷えているイメージかあるが冷えてはいない。熱は少しずつは減っていきますが相当長期間ずーっと残る。原子炉が止まっても水が抜けて空焚きのままだとメルトダウン(炉心溶融)してしまうわけですから、ものすごい発熱量を持っている。運転を止めた段階で燃え盛る火は消えたかもしれないが、まだ赤々とした熾が残っているのです。

その火はどうやって消えるかというと放射能には半減期があり、その寿命に沿ってしか消えてくれない。これは長いものでは何十万年、何百万年という半減期です。少なくとも人間が消そうとして消えるものではない。水をかければ消えるとか化学消火剤で消えるとか中和で消すとか、これらでは絶対消えません。消えない火です。

人間がある技術をマスターし、エネルギーをコントロールするためには、好きな時に消す事が出来るものでなければいけないはずです。しかし原子の火というのは好きな時に消す事ができない。消えてない証拠が放射線を出している事です。

事故でセシウム等がバラまかれ、食品汚染を通して人間の体に入ってくるとはどういうことかと言うと、その消えてない火が人間の体の中でくすぶっているということです。人間の体に良いわけはない。

「科学の原理と人間の原理」④

この社会の無責任さ

くすぶり続けるどうしようもないものを、やり場がなくて全部青森県六ヶ所村に持って行くという計画になっている。私はこの計画が、一番今の我々の社会の無責任さを典型的に表していると思う。このことを止めることに私の生涯を捧げたいと分厚い本を一冊書きました。

私は放射能を作る側でやってきた人間ですから、これが乱暴に捨てられる、消せない火を作ってしまったこの自分の行為の結末が、六ヶ所村という一地域の過疎であるが故に、それをお金でもって受け入れてしまった人達の上に矛盾を押しつけるという形で進行しているのが忍びないのです。

この計画を止めても放射能の行き先で良い所というのはない。しかしこの乱暴な計画を止めることを自分の人生の後始末にしないと、自分が核化学という学問を選んだことについての自分の責任を取り切れていないと思わざるを得ない。それくらいに消せない火であることから生ずる矛盾が解決できないのです。

ここのところが、核の原理と人間及び他の生命の生きる原理が一番根本的に違うところです。

 

核が要請するスピード

核が要請するスピードと人間が普通に持っているスピード感は全然違う。人間の普通の判断力とか敏捷性などと全然違うスピードです。これがまた非常に深刻な問題です。核の世界でいえばコンマ何秒、それ以下を争う勝負です。一秒判断が遅れたら本当にダメだという場合だってある。ですが人間はそんなふうにできているものではない。いくら技術が上がったからといって核のスピードには追いつけません。

例えば映画はコマ切れの少しずつ動いてゆくコマを連続的に回すから動いているように見える錯覚を利用しています。人間の目が誤魔化されているのです。映画はそれでいいわけですが、それで困るのは原子力の世界です。

 

人間の誤りを許さない原発

現代は非常に巨大事故の起こる時代となっている。今のような巨大なシステムの中では、誤りが本当に許されない。人間のちょっとくらいの誤りがあったら機械が止まるシステムは一応あるが、すべてのケースに働くわけではない。人間が突拍子もないことをやったらまずダメなのです。

事故には色んなタイプがあるが、一番気になるのは将棋倒し型の事故です。何もなければ機械は自動的に動いていて退屈至極です。トランプをやっていたという話があったり、アメリカの原発では居眠りしていた時に事故があり後で罰金となった。

原発は普段は完全に自動で動いている。そこに何か起こるからいきなリ人間が対応せざるを得ない。そうすると人間は慌てるわけです。そしてミスを犯してしまう。②というスイッチを入れなければならないのに③のスイッチを押してしまう。機械はそれに反応してしまう。また次に違う事態が起こってそれにまた人間が影響を受けるといった人間と機械の将棋倒しが起こるわけです。どんどんエスカレートしていく。ほんのちょっとした事と思われていたことが、すごく大きな事になっていく。

スリーマイル事故などは典型的で、一つ一つ見れば大したことはない。この事故で色々教訓はあったが、機械のどこが悪いというよりも、運転員の訓練が悪かったとか機械と人間の連絡が悪かったという話になった。それで制御室の設計を変えるとかボタンの位置を変えるとかしたが、それで片付く問題ではなかった。極端にいえば、その日の作業員の気分によってもずいぶん変わってしまうのです。ですからアメリカでは精神科医や心理学者が居て運転員の精神状態をチェックしている。

とにかく間違いのないようにというわけです。これはある意味非常に恐ろしい世界です。人間を機械にしちゃう発想です。人間の論理と機械の論理との間の矛盾を、人間を機械の方に寄せることによってカバーしようとするのです。しかしそれがどうもうまくいかない。やっぱり事故を起してしまう。

チェルノブイリだって色々設計ミスとか人為的ミスと言われる。設計ミスでも、人間が設計する段階で既に「うっかり」とか「想定しない」というような人間くさい要素が入ってしまう。そういうことを含めて人間が絡むところには事故は必ず起きます。

「科学の原理と人間の原理」⑤

大きすぎて実験ができない

原子力が大きすぎることて実験が出来なくなってきた。実験ができないということはすごく大きい。今の科学は実験ができない領域に入っています。

美浜原発事故ではECCS(緊急炉心停止冷却装置)が作動しました。あれはECCSの実験をやったようなものです。今回はうまく働いたが、あれで炉に損傷を与えずに本当に成功したのかどうかわかりません。世界的にECCSが働いたのは十数例です。そのうち一回はうまく働かずスリーマイル島の事故になりました。チェルノブイリは最初からECCSが入る余地のない事故でした。

ECCSが本当に働くかどうか実例は少なく、実験例はあるかというと実験のやりようがありません。事故が起こって実験をやっているようなものです。スリーマイル原発事故はデータが残っていたので、原子炉内の実際をコンピューターで再現しようとしたがなかなか出来ない。大型コンピューターで三ヵ月かかり、一応の答えが出て炉心は溶けていないという結論だった。ところが何年もかかって蓋をかけてみたら70%が溶けていた。

人間の知恵、科学技術なんてその程度のものです。それが万能であるかの如くに思っているところに、人間のおごり、たかぶりがあると思います。

これから人間はまだ先に行くと思う。けれど先に行くのは半分の面だけです。火を着けるという方向ではいくらでも先に行くけれど、それが人間や社会にどういう影響を与えるか、どういう傷を与えるかについてはそれを有効に評価するとか守る手段が何にもない。そちらの方には知恵が働かないままに進んで行く。

科学技術のもたらすものは、地球規模にまで及んでいるのに、それを扱う人間が全然そのことを自覚していない。そこのところが何とも情けないし恐ろしい。

 

放射能の時間の長さ

放射能の持続する時間というのは、何万年何十万年何百万年です。一番毒性が強くやっかいなもので問題になるのはネプツニウム237です。これはウランからできるもので原子炉の中で出来てしまう。

ペレット一個燃やすと一軒の家の一年分の電気を作る熱を出します。これが原子力の魅力と言われる点ですが、ペレット一個の死の灰は五万人の致死量に当ります。一軒分の一年間の電気のために大変恐ろしいことをやっている。

この半減期が210万年です。この毒性が非常に強く、百万年位経ってようやく青酸カリと同じ位になる。青酸カリという地上的な毒になるのに百万年かかるのが核の毒です。

人間の一生の長さからすると限りなく長い。無限に長いというような長さを待たなくては地上世界の物にならないような毒なのです。

「科学の原理と人間の原理」⑥

日常のすぐ隣に存在する核との矛盾

今、五点ほど挙げました。①核の不安定。 ②核の要求する速さ。 ③実験ができない。 ④誤りが許されない。 ⑤時間が長すぎる。 ということです。これらはすべて、人間が普通に生き生活する論理と原子力との間の矛盾なのです。これがもし、全然別の世界のこととして存在するなら問題はありません。しかし原発は具体的な存在として日常のすぐ隣に存在しているわけです。

核が核だけで閉じてくれなくて、非常に奇妙に人間に接近せざるを得ない。人間の方はおおよそ核とは相容れない生命を持ち時間の感覚をもつ、そういう存在ですからどうしても矛盾がある。私は核の現場を歩いてきて、この所が一番耐えられなかった。自分が人間として生きようとした時に、どうしてもこの技術とは相容れないと感じたのです。

それで原発に反対し、核のゴミを乱暴に捨てさせないために私のできることをやっていきたいと思いました。私の営みとして放射能化学を学んできた責任をとるためには、大学や企業の中にいてプロとしてやろうとすると見えるものが見えなくなる。

実際に人間が生きる場、生活する場から、核の問題を自分のもっている専門ということで生かして逆の側からみていく作業を自分の問題としていこうと思いました。

 

別の論理がまかり通る ―合理性の強制―

わざわざ大学を飛び出して私の問題として十五年間やってきたのは、人間という立場から科学をやりたいということです。

今の社会が仕組まれている論理構造は、本当に人間として生物としての論理ではない論理がまかり通ってきている。その流れに人間としての原点からどこまで抵抗していけるのか。これは全く皆が共通する問題でもあります。

私の経験から言えば、人間というのは合理性で割り切り、数字に還元できる生きものではない。私は合理性の強制と言いますが、原子力をやらされると合理性で割り切らざるを得なくなる。原子力に反対しようとすると、いっぱしの専門的な議論を身につけて、論理で勝たないとダメになってくる。本当はそんなものでないはずです。素朴な感情から私はこう生きたい、嫌なものは嫌で本当はいいはずです。

合理性の強制というのは、いつの間にか自分も合理主義的な形で考え、生きていかなければならないとなってしまっていることです。

 

生命は自分だけのものではない

人間というのは科学的にいうと先が見えないものです。人間の知性では十年先二十年先は見とおせません。科学技術に関しては人間の知恵はそんな先に及ばない。そういう生き物ではないのです。もっと違うところに人間の本質がある。科学的論理の世界ではないところ、生命という観点ですごく広い大きな世界に繋がっている。

生命は個としての生命であると同時に宇宙の長い歴史の中の一通過点としての自分を生きているのであって自分より前もあったし後もある。自分の生命は自分だけのものでなく、世代を超えたものだという気がします。

 

共生の科学へ

今までの科学は突出することを目的とした科学。突出の科学と言っていますが、とにかくより強くより早くより大きくという突出することを目的にしていた。その結果、自然界の中で人間だけが突出してしまった。そのことが人間自身を苦しめている。さらに、科学技術を享受する人間と享受しない人間の差別も作ってきた。

この科学に対して人間の原理の優位をということを私は言って来た。科学は人問が作り出したものだから、人間か制御できると考えるのは非常に楽観主義すぎる。科学そのものも変わる余地がまだまだある。突出の科学ではなく共生の科学という、生命と共にある科学という方向にどこまでいけるか期待している。

その場合こういう枝術が望ましいということもありますが、技術の問題だけでなく大事なのは自分の生命、自分の営みを単に自分だけの問題として考えるのではないような次元で科学を考えていけないだろうかと常々思っている。

 

死せる者の声を自分の声として

私はこの頃、死者と共に生きるという生意気なことを言います。それは核をやってきた人間にとって、広島、長崎の被害で死んだ人達はまだ死にきれなくて、その者がこだましているような気がするのです。 核の被害者の声をどれだけ自分の声として発言できるかという意識があります。

湾岸戦争で原油まみれになった海鵜、ペルシャ鵜の写真がよく写ってますがこの海鵜は声を発することができない。あの声をどれだけ自分の声として発せられるか、人間はそういう責任を背負っていると思うのです。それはまた、未来の世代に繋がってくる。

今、未来の世代に我々は大変なものを残そうとしていますが、その未来の世代の声を今どうやって私達が発せられるのか。これは世代を超えた共生。死者との共生。未来との共生です。

最近、自然との共生は盛んに言われるようになってきましたが、そういう時間の流れ、宇宙的な広がりの中での共生、そういう概念の中で科学的な営みがどこまでできるのかというのが問われている。

そういうところをコツコツとやっていけたらなと、自分で出来ることは限られていますがやっているのが私の現状です。

私自身がこんなふうに考えていて、こんなふうに生きているというレベルでのお話としては話すべきことは話したようです。

(終)

 (高木仁三郎講演録『科学の原理と人間の原理』より)

(文責事務局)

「科学の原理と人間の原理」⑦

《故 高木仁三郎さんの紹介》

一九三八年生まれ、二〇〇〇年大腸癌にて死去、六二歳。物理学者、理学博士。専門は核化学。群馬県前橋市出身。東京大学理学部化学科卒業。東京大学原子核研究所助手、都立大学助教授などをへて、一九七五年に政府の原子力政策について自由な見地から分析・提言を行う為、原子力業界から独立したシンクタンク・「原子力資料情報室」を設立、代表を務めた。

市民科学者として原発問題で多くの著作を残した。原子力発電の持続不可能性、プルトニウムの危険性などについて、専門の立場から警告を発し続けた。特に、地震の際の原発の危険性を予見し、地震時の対策の必要性を訴えたほか、脱原発を唱え、脱原子力運動を象徴する人でもあった。原子力発電に対する不安、関心が高まった一九八〇年代末には、新聞・テレビ等での発言も多かった。3・11以後に再び多数のマスコミに紹介される。

 

― 編 集 後 記 ―

『科学の原理と人間の原理』は、故高木仁三郎氏が一九九一年二月二十二日に、真宗大谷派金沢教務所での講演を、二〇一一年五月に「真宗大谷派金沢教学研究室修了生の会」が急遽講演録として発行されたものです。

その講演録の「まえがき」に久仁子夫人より、仁三郎氏の亡くなる直前の「友へ」と題したメッセージが紹介されているので最後に紹介する。

* * * * * * * *

 「原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射能廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。

後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。

私は何処かで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。 いつまでも皆さんとともに

高木仁三郎

* * * * * * * *

このメッセージに応えることが、「フクシマ」という現実を体験した今の私達の責務と思う。

 (「念仏者九条の会・山口」事務局)

 

『科学の原理と人間の原理』を希望される方は少し在庫がございます。(A5版一〇六頁・一部三百円)
この『講演録要旨』は無料にておわけします。何れも「念仏者九条の会・山口」事務局まで。

 

念仏者九条の会・山口 総会ならびに第8回学習会のご案内

「憲法破壊の動きを読む」

~第9条を護り、生かす方途を探る~

講師:纐襭 厚 さん(平和憲法ネットワーク・やまぐち共同代表/山口大学副学長)

 

日時:2013年7月11日(木) 総会午後2時 学習会午後3時~5時 終了後交流会

会場:山口グランドホテル会議室(083-972-7777・新山口駅新幹線口正面)

参加費:無料・カンパ歓迎 (但し交流会3,000円)

 

「憲法」を改悪する動きが急速に高まってきました。本来、憲法とは国民主権のもと、基本的人権を尊重する上から、「国家の権力を制限し縛る」ものです。この「立憲主義」によって無力な一市民も圧制と隷従から解放されたのです。「立憲主義」こそが強大な政治権力に対抗するために市民が獲得した唯一無二のものなのです。ところが今の改憲案は、国民の権利を後退させ国民に義務を強制するものです。これは「立憲主義」への挑戦であり、民主主義・平和主義の破壊につながる動きです。しかも「日本国憲法」は世界に先駆けた平和主義によって、戦後68年の間、一回の戦争も起さず、戦死者も出さずに歴史を刻んで来ました。その象徴が「憲法九条」です。

ところがこの第九条を変えて、「国防軍」を設置し日米同盟の元、「集団的自衛権」を行使し「戦争をする国」にしようとしているのです。この危険な動きを座視してはいけません。

このたび、長く政治・軍事・平和問題を研究してこられました山口大学副学長・纐襭 厚さんをお迎えします。2005年に「平和憲法ネットワーク・やまぐち」を立ち上げて、護憲運動に力を注いでおられます。是非、皆様に聞いて頂きたくご参加くださいますようご案内申し上げます。

尚、学習会は当日でも受付けますが、交流会出席の方は7月1日までにお知らせください。

申し込み先

 「念仏者九条の会・山口」事務局

〒759-4623 長門市油谷向津具下4697 龍雲寺内

TEL:0837-34-0980 FAX:0837-34-0982 MAIL:ryuun-2@hot-cha.tv