カテゴリー別アーカイブ: 第15号

総会・学習会を開催

七月六日(金)、山口支部の今年度の「総会・学習会」を「本願寺山口別院」にて開催しました。

「総会」では前年度の活動報告、決算報告がなされ、今年度の活動計画・役員改選等が協議承認されました。(決算報告6項掲載)

「学習会」は三十二名のご参加をいただき、広島市立大学広島平和研究所教授・田中利幸さんをお迎えし、「原発と原爆~日本の隠された核兵器開発計画~」と題してご講演をいただきました。

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ヒロシマ、ナガサキの二度の原爆投下と福島第一原発事故により、日本は三度も過酷な放射能被害を受けた国となった。しかもフクシマは自ら起こした事故である。「三度も放射能に苦しむ愚かな国」と外国から揶揄されたのである。何故このようなことになったのか。戦後の日米の原子力政策に詳しい田中教授の講演を通して、今後の反核・反原発の思いを新たにした。

講演 「原発と原爆」 ①核兵器と原発は表裏一体

<講演趣旨>

「原発と原爆」 ~日本の隠された核兵器開発計画~

広島平和研究所教授 田中利幸さん

原発の問題と核兵器の問題が全然つながっていないが、原発と核兵器は密接に関係している。それがあまり言われないがために反原発運動と反核兵器運動が分離している。

それはおかしいので、核兵器と原発は表裏一体であり、核兵器を無くさないでは原発は無くせないし、原発を無くさないでは核兵器も無くせないということをあちこちで発言させて頂いている。

日本でも原発の問題は、日本の核兵器製造政策と非常に密接に関連していることを歴史を辿りながらお話させて頂く。

講演 「原発と原爆」 ②核兵器が出来る経緯

1983年にドイツのオットー・ハーンと助手のマイトナーが、各は分裂しその時に大きな熱 を出すことを発見した。その7年後の45年7月16日にはアメリカで最初の原発「トリニティ」が実験で核爆発に成功している。「トリニティ」とはキリスト 教の三位一体のことで、父(神)と子(キリスト)と聖霊の一体をいい、名付けたのは原爆開発であるマンハッタン計画の責任者オッペンハイマーであった。

なぜ三位一体かというと、神と同じ位の大きな力を発揮する、つまり爆風・火炎・放射能の三 つを一体になぞらえたのである。実はオッペンハイマーは広島・長崎への原爆投下後は、逆に核兵器に批判的になり、水爆実験にも非常に反対して、アメリカ政 府からも敵視されるようになった。

60年代に入り、彼は非常な罪を犯したと公言するようになった。後に人類初の核実験「トリニティ」を回想し「我は死となれり、世界の破壊者となれり」とインドの神話「バカバット・ギータ」から引用した言葉を残している。

講演 「原発と原爆」 ③核技術の利用と拡散

1945年8月6日に広島、9日には長崎に原爆が投下された。長崎の浦上天主堂の上で爆発したのは何か因縁めいている。

戦後、核技術を様々なことに利用しようとする動きが出てきた。特に軍事的にも応用され、潜水艦への利用がはかられた。原子炉は長期にわたって大きな熱が出続け石油を使う必要がない。さらにミサイルの弾頭に核弾頭を装着する。それが原子力潜水艦ノーチラス号であった。

オッペンハイマーは強く反対していたが、原子力開発の中心はすでにオッペンハイマーの手から離れ、戦後の新しい科学者グループへ移っており、止めるのは無理であった。

当初、核技術はアメリカが独占していたが、49年8月にソ連が核実験に成功し、53年には水爆実験をした。その後、イギリス、フランスも成功し、核技術は拡散して行くことになった。

講演 「原発と原爆」 ④原子力の「平和利用」

ソ連は商業用の核技術を共産圏の中で転用し始めた。それに対抗してゆくためにアメリカは、53年12月にアイゼンハワーが国連で演説し”Atoms for peace”すなはち「原子力の平和利用」なる政策を打ち出した。

アメリカの狙いは、核技術が拡散することは避けられないが、核技術を平和利用だけに限らせ、核兵器は造らせないシステムを作ることにあった。「平和利用」「商業利用」のためには技術を教えるが、核兵器を造らない約束を求めたのである。

そのための制度として国際機関「IAEA」を作り規制させる体制を作り上げた。

当初にアメリカが考えていたのは、核兵器そのものを平和利用することであった。例えば核爆弾を使い爆発させて鉱山開発をする、また運河を作る、アラスカの氷を爆破で取り除くなどであった。まさに核兵器と平和利用は表向きでも一体であった。

ところで、原子力潜水艦に使われたのが沸騰水型の「マークⅠ型」で、福島がこれと同じであった。3.11で福島の3号機が爆発した時、アメリカの科学者は驚いた。プルトニウムが入った危険なMOX燃料が入っていたのである。

放射能は長期にわたり人体に影響するが、広島で生き残った人の死亡のピークが12~13年後の57年から58年であり、その死因の第一位が白血病であった。福島でも同じことが予想される。さらに子供は早く7~8年であろう。

講演 「原発と原爆」 ⑤ビキニ事件とアメリカのプロパガンダ

アメリカの原子力委員会は核兵器の政策・実験・平和利用をすべてコントロールするが、トーマス・マレーはビキニ水爆実験の責任者であった。

54年3月にビキニ水爆実験が行われ、第五福竜丸が被爆した。それ以外にもたくさんのマグロ漁船がいて被爆しているが。第五福竜丸が被爆したことで多くの日本人が反応した。

特に東京杉並区の主婦を中心として核実験反対運動を起こし、日本の人口の四分の一に当たる二二〇〇万の署名を集めている。

この引きにの事件はアイゼンハワーが「平和利用」を打ち出した直後の事件であり、これでは日本人は受け入れないことは明白あったので、アメリカは何らかの対応手段を取らねばと考えた。

そこで第一に、まずは被爆者の人達に平和利用を理解させようとした。被爆者が平和利用はよいことだと言えば大きな宣伝になる。

そのためトーマス・マレーは核の犠牲になった人達こそ、まず、原子力の利益を受ける資格が あると広島に原発建設を提案した。また55年1月には下院議員のシドニー・イエーツが連邦会議で広島に日米合同の商業用原発を建設するという提案をし、ア イゼンハワー大統領にも提案の手紙を送った。その中で、広島を原子力平和利用のセンターにする。病院を建てるよりは原発を建てることの方が有益だと主張し ている。

この提案に対して、広島の人は驚くべきことに次々に賛同を示した。冬至の浜井市長は「医学 的な問題が解決されたなら死の原子力を生のために利用することは大歓迎だ」。次の渡辺市長は「他が手をあげるより前に、我々が早く手をあげた方がよい」広 島大学の長田新は「米国の紐付きでなく、民主的な独自で開発するならよい」等、彼らは被爆者であるが次々に賛成していったのである。

少ない反対者の中で広島大学の森瀧市郎は「何よりもまず原爆で苦しんでいる広島の犠牲者の治療と生活の両面にわたり面倒を見るべきだ。また原子炉があれば戦争が起きれば、また広島がターゲットになる」と反対していた。

では、アメリカは本気で広島の原発建設を考えていたかというとそうではなかった。当時のホワイトハウス、国務省は最初から明確に反対していた。アイゼンハワーも反対していた。

これをするとアメリカが原爆を落としたことに罪意識を感じていると認めることになる。さらに、広島に原爆を落とし今度は原発を造り廃棄物のプルトニウムをアメリカに持ってきて核兵器を造ったら世界中から批判されるとはっきりと反対していた。

つまりこれはプロパガンダであった。被爆者も賛成しているということを宣伝しさえすればよかったのである。結局、55年12月にはこの話は立ち消えになる。アメリカの思い通りになったのである。

「原子力平和利用博覧会」

アメリカは第二に、日本人の考えを変えさせようとした。これが55年末から56年にかけて行った「原子力平和利用博覧会」であった。これを主催したのが読売新聞社であった。株主は正力松太郎である。これはCIAの心理作戦であった。

この博覧会は、当初は広島で最初に開催する計画であったが、結局まず東京で開催し、名古 屋、京都、大阪、広島、博多、札幌、仙台と巡回した。広島の開場は今の原爆資料館で、何と資料館の展示物の全てを一時移して三週間にわたり開催し八か所合 計100万人を集めるに至った。

展示物は医療用の癌治療アイソトープの模型、放射線の農業利用、食品利用、工業開発など多種多様のものであった。中には原子力飛行機というあり得ないものもあった。原子炉は大量の水で冷やさなければならないのに飛行機への搭載は不可能である。

パンフレットはカラー写真や絵をふんだんに使い、白黒がほとんどの当時からすれば目ひくものであった。また広島だけ特別な扱いで、展示品の中より希望する展示物の贈呈を受けた。この博覧会を通して、核技術は素晴らしいとすっかり思い込まされたのである。

「博覧会」は日本だけでなく世界中の親米国で開かれた。インドのネールは核兵器に猛烈に反対していたが、これで変わってしまった。今、インドは核兵器を持っている。

広島には50年代「アメリカ文化センター」が建設されていた。そこで様々な宣伝をおこなったが、ディズニーのアニメで平和利用を宣伝し、その映画を貸し出していた。これは広島だけの話ではなく日本全国で読売新聞や日本テレビの宣伝により平和利用が広められていった。

先の杉並の主婦たちの核実験反対運動は平和利用賛成であった。核実験には反対であったが、平和利用には賛成し進めることを主張していた。このように原子力は、将来のためには必要不可欠だとすっかり洗脳されていた。

55年8月の第一回原水禁大会での広島メッセージには、核実験は反対、平和利用は推進となっていた。

日本の物理学者も問題であった。日本の有能な和解物理学者は戦地にも行かずに生き残った。ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹を始め彼ら科学者は、平和利用にすんなり賛同し、原爆の開発に関与したことも一切語らず反省もなかった。世間も科学者を責めることはなかった。

世界的にも同じ傾向であった。たとえば、バートランド・ラッセルとアイン・シュタインの核兵器廃絶宣言に賛同する科学者が「バグウォッシュ会議」を創るが、核兵器はだめだが平和利用はよいと主張していた。

冒頭のオットー・ハーンも実はドイツの平和利用博覧会では協力していた。このように平和利用は世界的は運動としてアメリカの政策のもとに広がっていった。

日本の核兵器製造の思惑

日本での「原子力平和利用」ということは、実は核兵器を造りたいという思惑と密接に結びついていた。その中心が日本の平和利用のための予算を最初に付けた中曽根康弘である。

アメリカは彼を将来有望な政治家になるだろうと見込み、ハーバード大学に呼び、キッシン ジャーのもとで教育を受けさせた。その時に中曽根は日本も核兵器を持たなければならないと確信したようだ。さらに自由主義圏の科学者もアメリカに呼んで原 子力技術を教えていた。日本の科学者も当然参加していた。

その結果、原子力の平和利用は、同時に核兵器生産技術の拡散に繋がっていった。核兵器を造ることと原子力を動かすことは一体のものだからである。

近年、アメリカで発見した資料には、55年に日本が原子力の平和利用に調印した段階でアメリカの原子力委員会は「日本は十年後には核兵器を製造する能力を持つ」とはっきり明記していた。

中曽根はアメリカで学んでいた日本人科学者に日本で核兵器はできるか、できるとするといつ できるか質問をしていた。54年3月に予算を付ける時、中曽根と同じ改進党の議員は、予算委員会で新兵器(核兵器)の利用について質問している。平和利用 の最初の予算を付けた時、もう核兵器のことが言われていたのである。不思議なことに当時の社会党も共産党も何も言わなかった。

講演 「原発と原爆」 ⑥核兵器の持ち込みと密約

アメリカは核兵器を早く持ち込むことを考えていた。最近発見した55年3月の国防長官から 統合参謀本部への手紙によると、日本の国内には既に核物質の芯は抜いてあったが核爆弾が持ち込まれていた。沖縄の話ではない、当時まだ沖縄は返還されてい なかったから日本のどこかにである。ソビエトと戦争になった場合を想定し、いつでも使えるように持ち込まれていた。そして使える権限が統合参謀本部長に与 えられていた。ドイツへオープンで持ち込んでいたのと同じであった。

56年12月の国防副長官への手紙によると、最終的にオープンに核兵器を持ち込むが、日本は反核意識が高いので、今はオープンにはできないが、平和利用を進める中で将来はやると言っているのである。アメリカの意図は半ば達成されていたのである。

オープンに持ち込むことは簡単には出来なかったが、転換期は沖縄返還の時であった。佐藤首 相が核のカードを使ったことである。つまり返還できなければ核兵器を造ると主張したのである。事実、佐藤政権は実際に核兵器を造るための計画案を勉強させ ていた。今は外務省も開き直っていてウェブサイトで閲覧できるのである。

アメリカはあっさり沖縄を返還するが核をいつでも持ち込むと主張した。そしてその密約を裏で交わしていたのである。

佐藤は卑劣にも、国民には表向き非核三原則を持ち出していたが、裏では持込を容認していたのである。しかも佐藤はこの非核三原則でノーベル平和賞を貰うという無茶苦茶な話である。さすがにその後、ノーベル賞委員会は間違っていたと認めた。

ところがアメリカは、中曽根政権の時、つまりレーガン、ブッシュ政権の時代に政策を転換していた。ジョセフ・トレントというジャーナリストが明らかにした。それはレーガンの時に、日本にはすぐにプルトニウムが作れるように、核燃料の再処理の技術を持たせることにした。

こんな馬鹿なことは本来ないのである。日本は「IAEA」や「NPT」に加盟しており再処 理はできないはずなのである。核兵器保有国以外で再処理が出来るのは日本しかない。これはレーガンとブッシュと中曽根政権で決めた。その時にできたのが燃 料の再処理工場であった。「普賢」の燃料再処理は表向きで、本当の目的はいつでも核兵器が造れるためであった。

福島第一原発の三号機にMOX燃料を入れていたことにアメリカの学者は驚いた。核兵器を造る国だけしか持っていないはずの高濃度のプルトニウムを日本が持っていることに驚いたのである。

講演 「原発と原爆」 ⑦アメリカの本音は

なぜアメリカは日本の核兵器製造能力維持を支援したのであろうか。

北東アジアに核兵器を使うような戦争が起こった時にアメリカは核兵器を使ってまで日本を防 衛するだろうか?そんなことをしたらアメリカ本土が危なくなる。そんな危ないことはしない。核兵器戦争するなら勝手にやれ。すぐに造れる能力を持たせてお いて、危なくなったらアメリカは撤退し、核兵器造らせて日本がやればいい。

日米同盟はウソだ。何のために基地を持っているかというと自国の予算を削減するためである。思いやり予算を出させているではないか。いざ戦争になったら逃げますよ。自分達が危なくなったら逃げますよ。

福島原発事故が起こって、一挙に脱原発の声が沸き起こったが、その時に石破元防衛庁長官は「核兵器が造れなくなる」と発言した。思わず本音がでたのである。

六月二六日に「原子力規制委員会設置法案」が可決されたが、「我が国の安全保障に資すること」という一文を三日前にさっと入れていた。安全保障とは防衛のことである。メディアは直ぐに反応もしなかった。野党も知らなかった。

講演 「原発と原爆」 ⑧核抑止力は「平和に対する罪」

核兵器製造能力維持とは「核抑止力」である。

これは「平和に対する罪」と考える。第二次世界大戦の後、ニュールンベルグ裁判で新しい罪として「平和に対する罪」という概念が出来た。

これは「人道に対する罪」として大量虐殺・強制移住の計画・準備・謀議を言うが、計画する ことさえも犯罪としたのである。だから「核兵器抑止力」とは「核兵器を使いますよ」ということで脅かしに当る。「平和に対する罪」に当り犯罪行為なのであ る。これは国家のテロリズムである。

わかりやすく言えば、ピストルに玉込めてここに置いておくのは抑止力にはならない。ピストルを頭に突きつけた状態が抑止力である。これまで長年ソ連にしていた。イランや北朝鮮はこれをやられたから核兵器を持とうとしたのである。

講演 「原発と原爆」 ⑨「生命道に対する罪」

「人道に対する罪」とは、戦争中ばかりでなく平時においても「一般住民に対して行われる殺人・殲滅その他の非人道的行為」に当る。

原発は人道に対する罪と言える。それは殲滅に当るからである。長い間かかって多くの人を殺してゆくからである。チェルノブイリがそうである。今、福島の人は被爆したのではないかと大変恐れている。これはその他の非人道的行為に当る。

しかも放射能の影響を受けるのは、単に人間だけではない。家畜、ペット、野生動植物を含む あらゆる「生命」が被害を被る。したがって「人道に対する罪」という人間中心の身勝手で狭い犯罪概念を改めて、「生命道に対する罪」という新しい法概念を 打ち立てるべきではないかと考える。

反核・反原発を統合するために

現在、福島第一原発事故による大惨事という経験を強いられている我々市民、とりわけこれまで反核運動に取り組んできた組織に身を置いていた者たちは、このような歴史的背景を持つ事故の弱点を徹底的、批判的に検討する必要がある。

そのような真撃な反省の上に立って、今後、反核兵器運動と反原発運動の統合・強化をいかに推進し、人間相互の関係ならびに人間と自然との関係が平和的で調和的な社会をいかに構築すべきかについて、広く議論を進めていくことが今こそ求められている。

(文責「念仏者九条の会・山口」事務局)

 

(著者紹介)

田中利幸さんの著書、岩波ブックレット『原発とヒロシマ「原子力平和利用」の真相』(500円税別)が岩波書店より出版されています。