「科学の原理と人間の原理」①

〈講演録要旨〉

「科学の原理と人間の原理」

~人間が天の火を盗んだ―その火の近くに生命はない~

原子力資料情報室代表
故 高木仁三郎さん

科学技術の肥大化による危機

科学技術は、元々人間の営みのごく一部、それも人問の頭脳の活動のごく一部であった科学、ないしはそれを適用した科学技術というのが、その部分だけが異常に発達してしまって、自然なる生き物としての人間、いち生物としての人間の原理、生命の原理、生きることの原理とかなりかけ離れたところにいってしまった。 しかも一部の政治権力や資本によって戦争の道具に使われたり、金儲けの道具に使われたりというようなことが非常に顕著になり、肥大化したという面が否めない。

そうして人間が作り出したものが自然界全体を危機におとしめるようになってしまった。その一部としての人間、生き物としての人間そのものを危機におとしめている。そいう意味では、人間が作り出したものが自分の首をしめているという状態が、今まさに起こってきている。

 

科学者は麻疹する

30年程前に大学で原子核化学という放射能の勉強をした後、会社に入り放射能を扱う研究をしていました。まだ日本には原子力発電所が無かった時代で、これから原子力発電所を導入するにあたって、良く言えばその基礎研究をする、あからさまに言えば原子力は安全だということを証明する。悪く言えば何かあった時のアリバイ作りのような研究をしていた。そのころは原子力が人間にとって悪いとか、問題があるとは思ってもみませんでした。

当時は原子炉の脇で毎日仕事をして、取り扱う放射能や浴びた放射能はすごい量でした。ガイガーカウンターが振り切れ、ウンともスンとも言わない動かない領域に入る。そういう動かない領域で仕事をしているとこっちも麻痺してしまう。ちょうどガイガーカウンターと同じように人間がなってしまう。
科学者とか技術者というのはそんなものなのです。機械でものを見てるから機械が動かなくなったら自分も感覚的には動かなくなってしまう。

強い放射能を扱うから防護服や手袋、時には鉛ガラスの眼鏡という重装備ですから確かに疲れる。しかしプロだからこのくらいで負けてどうするという変なプロ意識が出てくる。ビビる若者には「そんなんで1人前になれるか」とからかう感覚にだんだんなってしまう。そういう世界になってしまうから問題が多い。 この仕事をやると安全ということをなかなか考えなくなる。卑俗な話、タクシーの運転手が一番安全運転をしているかというと、案外とそうでもなく乱暴な運転をしている。

 

企業の論理が優先

放射能には色んな分からない面があり研究をしたいのだが、会社は仕事の予定を優先し予定を狂わす研究をしだすと途端に邪魔者扱いをする。また、会社に都合の良いデータがでるとすぐ採用するが、都合の悪いデータが出ると抹殺する。都合のいい部分だけをむしり取って行く。

研究者はデータで勝負するが、測定器が勝負の道具であるがゆえ今度は測定器に縛りつけられる。精度のいい測定器ほどいい仕事ができるという発想になる。研究者は上司が何を言っても怖からないが、研究装置を奪われることにはものすごい恐怖感がある。したがって予算がないとできないので機械の道具になり、研究者はものが言えなくなってしまう。

科学者であるより前に人間であるはずなのに、機械に縛られデータに縛られ、ものが言えなくなり非常に人間が矮小化される。

 

放射能汚染に見る人間の業の深さ

 やがて会社を辞め、放射能の基礎的なこと放射能の原理を研究したく、大学の原子核研究所に入り教員となった。そこでわかったのは地球全体が人工の放射能で汚染されていることだった。海や山に行き放射能を測るとつい数年前の放射能がいっぱいでした。南太平洋の海底も日本国内でも人間が作り出した放射能の垢がハッキリ残っていた。

 どこへ行っても人工の放射能で汚れていることに驚きショックを受けました。人間のやっている業の深さに驚き、そのことを知らなかった白分に驚き、周りの人も知らない学問の分野であることにまた驚き考え込んでしまいました。

 そして決定的だったことは、海や山ではなく人里で放射能が見つかったことでした。多くは米ソの大変な核実験、フランス・中国の核実験の影響でした。実験室では驚かなかった私が人が普通に住んでいる里、魚が泳ぐ川、鳥が鳴く森で放射能を検出した時は身震いする程驚き大変なショックでした。

 実験室にいる時は科学者でプロだから慣れもあり驚かない。放射能は数字としか思わず私という人間全体として放射能を扱っているわけではない。 しかし、外の環境に出た放射能を測っているとそれでは済まない。科学者としての場を離れて、みんなが生きる場で一個の人間としての立場から放射能を初めて見た時、全然違った世界が見えてきた。今まで考えてきた放射能というイメ―ジと全然違った物が見えてきて身震いし「これはちょっと違うぞ!」「なんてことになったんだろう」と思い、自分の居る場所というのは何なんだろうと考えずにはおれなかった。