「科学の原理と人間の原理」③

許される科学技術と許されざる科学技術

人間には地上の人間の原理の中で許されるべき科学技術とそうでないものとがあるということを我々はちゃんと知る必要がある。これは原子力だけではない。

例えば今、バイオテクノロジーということで遺伝子を相当いじり出した。それから医学も相当進んできて、人間の臓器を他の人の臓器に置き換える事がかなり出来るようになった。人間の「死」ということも脳幹の死だけで人間の死を認めてしまう。それはまた臓器移植と結びついて来るが、そういう色んな事が起こって来た状況です。

これは明らかに今までの人間の自然な死とか自然な生命と違う原理を持ち込んでいるのです。

西洋の科学技術の伝統、私自身が教えを受け学び育ってきた伝統の中では、人間というのは基本的に頭脳なんです。科学技術は本当に頭の中だけで膨らんだものです。自然な生き物としての人間の全体というこ
とを決して問題にしない。非常に頭だけで肥大したものです。

臓器を取り換えることが出来るようになった今、手を取り換え、足を取り換え、臓器も取り換え、全部取り換えて、その人は同じ人間なのかという問題にぶつかる。西洋的な考えでいくと脳だけ元の人の脳だったらあとはどれを取り換えても元の人です。

「果たして本当にそうだろうか。」というと、どうも俯に落ちない。そういうふうに技術というのはかなりとんでもない所に行ってしまっている。それに対して人間の側はほとんど追いつけていない。

 

核の安定の上に成立する生命

私達が生きている地上の生命の世界というのは、核の安定の上に成り立っている世界です。それは化学の変化の世界です。人間の体の機能は化学変化の世界です。人間の体の中で燃えるとか酸化するとかはみな化学変化でやっているわけです。遺伝子も化学物質で化学変化の世界です。核の変化は一切関係してこない。原子の外側の話であって、原子の内側まで関係してくる話ではない。これを核の安定という。

核そのものが安定しているという事が生命の基本的な基盤です。平たい言葉でいうと原子の安定と言ってよい。

ところが原子力というのは、まさに核の安定を崩すことによってエネルギーを取り出す技術です。核の安定を崩さない限り原子力は成り立たない。私はここに一切の原子力の問題があると思う。

弁が開くとか開かないとかいう問題は派生的に出て来るが、それが本当の問題ではない。

私は、今はまだ安全が確立しないからダメという議論はとらない。原理的に人間の生きる原理と相容れない、その点が一番大きいのです。

 

核の火は消せない

核の火というのは、そういう意味で消せない火です。原子力発電所を運転する、停止する、これは制御棒の動作とかいろんな技術的な動作によって行うことができる。しかし原子力発電所を止めた所で原子の火は消えたわけではない。

だから問題が大きいわけです。燃料棒の中に死の灰がいっぱい残る。死の灰というのはまだ熱を発生し続けているのです。私は死の灰というより熾(おき)であると言っています。灰というと冷えているイメージかあるが冷えてはいない。熱は少しずつは減っていきますが相当長期間ずーっと残る。原子炉が止まっても水が抜けて空焚きのままだとメルトダウン(炉心溶融)してしまうわけですから、ものすごい発熱量を持っている。運転を止めた段階で燃え盛る火は消えたかもしれないが、まだ赤々とした熾が残っているのです。

その火はどうやって消えるかというと放射能には半減期があり、その寿命に沿ってしか消えてくれない。これは長いものでは何十万年、何百万年という半減期です。少なくとも人間が消そうとして消えるものではない。水をかければ消えるとか化学消火剤で消えるとか中和で消すとか、これらでは絶対消えません。消えない火です。

人間がある技術をマスターし、エネルギーをコントロールするためには、好きな時に消す事が出来るものでなければいけないはずです。しかし原子の火というのは好きな時に消す事ができない。消えてない証拠が放射線を出している事です。

事故でセシウム等がバラまかれ、食品汚染を通して人間の体に入ってくるとはどういうことかと言うと、その消えてない火が人間の体の中でくすぶっているということです。人間の体に良いわけはない。