「科学の原理と人間の原理」②

人間として出発する

私の学問は、放射能を作って世の中に役に立つと宣伝し使ってもらう立場でした。世の中の進歩につながると信じて疑わなかった。しかし良かれと思って作った放射能が環境に出てしまっていることが自分の悩みの種になってしまい、科学者としての自分と人間としての自分との葛藤が始まったのです。

この問題を自分のテーマにしようと思うようになったが、これは我々の学問の世界では全く総スカン食うような話でした。環境の大事な問題だと言えば、あれはごみの問題だよとなるし、それは社会のやったことで、自然科学の問題ではないという話になる。それがまた、自分の地位とか研究費とか様々な問題が絡んできて日本に居づらくなりドイツへ留学して考えようとした。

けれど、そういうふうに物事を回避していくことが、結局この放射能汚染を生んでいくのだと思い至りました。そしてやっぱり放射能汚染の問題をやりたいという決断になりました。

自分たちが作り出した放射能が人間にとって何なのかということに責任をもたなくてはならないと。それは科学者として自分を自己規定する前に、まず人間としての自分という立場から出発したいというだけの話でした。

結局、大学を辞め、原子力資料情報室を始めました。その問題意識はずっと私が引きずってきたものですが、やっぱり科学の論理と人開が生活する原理というものとの間には、厳然とした違いがある。科学の方の論理だけでやっていく限り、これはどんどんどんどん人間の生きる原理からかけ離れてしまう。例えば、実際に人間が生きる現場で放射能を測った時に感じた驚愕。あの驚きというか、あの感覚がなくなった世界で科学をやったら怖い。百万カウントあっても千万カウントあっても驚かなくなってしまうところでやってしまったら怖い。それが唯一の原点です。

 

人間が天の火を盗んだ

核以前のものはどんな科学枝術も自然の模倣でした。例えば、飛行機にしても鳥の真似です。しかしどんなに素晴らしい技術を手に入れても、鳥のように少ないエネルギーであれだけ自在に方向転換し飛ぶ技術は持っていません。

ところが核の利用は、今までの実証的な科学の世界を越えた世界です。ここに決定的な違いがある。 西洋の故事に、プロメテウスが太陽から火を盗んできたという話がある。これがゼウスの怒りに触れてプロメテウスは罰を受けるわけです。これが非常に象徴的な事です。

まさに原子力というのは天の火を盗んだものだ。地上の火ではない。星が光っているのは、原子核反応によって光っているわけです。太陽が光っているのは、水素が燃えて水素爆弾と同じような原理だが、要するに核反応です。だから太陽に行けば放射能だらけです。熱によっても死にますが、放射能によって誰も近寄れないわけです。

つまり光っている星には絶対生命はない。その近いところにも生命はない。

宇宙に生命体のある星はまだ一つも見つかっていない。それほど地球というのは特殊な条件です。

どうして特殊な条件かというと、水がある、大気がある、磁場が働いている、太陽からの距離とか様々な要囚があるが、放射線に対して守られているということが非常に大きいからです。

地球が今のような形になったのは四十六億年前と考えられます。それまでは放射能が今よりもっと強かった。それが長い時間をかけて地球が冷めて、放射能が減ったからようやく生物が住めるくらいになった。

つまりせっかく地球上に自然の条件ができたところに、天上の火、核というものを盗んできてわざわざもう一度放射能を作ったというのが「原子力」です。ですから求めて非常に余分な事をしたと思う。天の火を盗んだ事に対してゼウスが罰を加えたというのは非常に象徴的な故事のような気がします。 やっぱりこれは天の火であって、作るべきではなかった。これに足を踏み入れた瞬間に、科学技術というのは新しい段階に入った。これまでは単純に地上にある自然の模倣であった。今度は地上の模倣でなく、天上のものを模倣するようになったのです。 地上の生命には、地上の生命の原理があり、地上の生き方の原理がある。その原理と全く異質なものを、人間の頭脳の発達によって天上から盗むことができるようになった。これが広島、長崎の悲劇、それからそれ以降我々を悩ます原子力の問題という形でつながってきているわけです。