武蔵野大学教授
山崎 龍明
ともに傷つく戦争
およそ40年さまざまなものを書いてきましたが、今、原稿用紙を前にして、妙に緊張している自分に気づいています。大げさではなく、今から書こうとしていることは、仏教者として生きてきた私の遺言にしたいと考えています。
1965年ベトナム戦争が起こりました。アメリカによる北ベトナムへの激しい爆撃はベトナムを共産主義から守るという名分でした。しかしその内実はベトナムを舞台にして展開されたアメリカとソ連との戦争でした。
人間は、実に愚かな者です。いつまでもいつまでも戦争をやめることができず、人を殺し続けています。20世紀が戦争の世紀といわれ、世界中で大小およそ2500の戦争が起こり、約2億人の人が亡くなったといわれています。
ベトナム戦争後もソ運のアフガニスタン侵攻、湾岸戦争、イラク戦争その他各地の民族紛争といったように世界中で戦争ばかり起こしています。戦争は天災ではありません。人間自身がひき起こすものです。であるならば、人間の手でやめさせなければなりません。いや、かならずやめさせることができます。 特に、信仰を口にするものはこのことに敏感でなければならないはずです。
戦争は、ひとたび起こされると、止まるところを知りません。加害者も被害者もともに傷つくのが戦争です。
戦争に勝利はないといわれる所以です。あのベトナム戦争からおよそ40年。アメリカ兵として戦った兵士が、今なお社会生活かできず、常に敵におびえているというレポートもあります。すべての人がベトナムで戦ったベトコンゲリラに見えるそうです。彼らは加害者であり、同時に戦争の被害者なのです。イラクでは3千2百人以上のアメリカ兵が死に、3万人以上のイラク人が死んだといわれます。
しかも一向に終結の兆しはみえず、ますます泥沼化の一途を辿っています。どれだけアメリカ兵を増派しても解決はしないでしょう。死者の山を築くだけです。一日も早くこの愚行、蛮行に気づいて終結の道を探るべきです。アメリカの世論もイラク戦争は間違っていたという人が60%を超えました。今大統領は躍起になっておよそ2万人の兵力増員を主張しています。しかしイラク開戦4年目の3月20日大規模な反戦デモがあり、棺に星条旗を覆っての行進もありました。イラクには自衛隊が派兵されましたが、自衛隊員はだれも殺さず、殺されもしませんでした。なぜでしょうか。これが小論の中心である「日本国憲法」に関わる問題です。
2005年、戦後60年といわれる中で、憲法改正をめぐる論議が高まりました。周知の通り、もちろんそれまでも「アメリカの押しつけ憲法排除」「自主憲法制定」の運動は声高くありました。この問題を仏教徒として私は少し掘りさげてみたいと思います。憲法というものに国民にとって極めて重いものです。しかし、それを平気で無視し軽視する政治家が多いことに私はあきれます。
憲法とは「国家」が権力を乱用して、国民の自由や権利を侵さないように、国民が国家に課した制約です。つまり、最高法規(第98条)なのです。
戦争への足音
立憲主義にたつ日本国憲法は、①国民主権 ②基本的人権 ③平和主義 を基本原則にかかげています。
私はこの3つこそ無数の人々の悲しみの歴史によってもたらされた「貴重な財産」であると考えています。しかし、第96条には改正の規定が定められていることも周知の通りです。
現行憲法の第2章には「戦争の放棄」がうたわれています、第9条〔国権の発効たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない、国の交戦権はこれを認めない。とあるのは知られるところです。
2005年11月22日に発表された「自民党新憲法草案」には「第2章 安全保障」平和主義の項には、現行憲法の②(戦力の不保持等)は削除されています。そしてその次に「自衛軍」という項目のもとに、総理大臣を最高指揮者とする自衛軍を保持すると明記されています。防衛庁もすでに今年1月防衛省になりました。
条項の全文をあげることは避けますが、着々と戦争への道が開かれていると考えるのは私だけでしょうか。
あらためて自衛隊を軍隊とし、戦力保有を明記するといった改正の方向はなんといってもさきの平和主義、基本的人権を脅かすものとして、改正にというよりも改悪と言わざるを得ません。
私は現行憲法に一貫する「いのちの尊厳」「人権遵守」「戦争の放棄」の3つは仏教精神そのものととらえています 仏教に多くの宗派がありますが「不殺生」「非暴力」はその根本原理であると私は考えます。いかなることがあってもこれらを否定したり、軽視する者は仏教の徒ではないといったら過言の謗(そし)りをうけるでしょうか。
私たちの現実をとりまく状況はきわめて酷しいものがあります。戦争の世紀といわれる20世紀から21世紀の幕開け早々、2001年9月11日米国では同時多発テロが起こりました。この時から世界は一変しました。自国の安全を守るという名分のもとに無原則に軍備増強が唱えられるようになりました。日本でも北朝鮮の核実験によりあたかも1億総軍備論者になったような感があります。戦争はすべて自衛のため、正しい戦争(今戦、義戦)という名目のもとになされますが、そんな戦争などありません。戦争はいかなるものであっても人類最大の愚行、罪業です。私はそれをブッダから学びます。
「恐れが生じたから武器を持ったのではない、武器を持ったから恐れが生じたのである」
(ダンマパダ)
という言葉を私は大切にしています。核兵器を持たない国の不安と恐れが核実験を生み、そしてその核を外交カードにしています。同時に核を持つ国が他同の核保有を批判し強大な圧力をかけるという図式は世界の常識となってしまいました。
理想論で悪いのか
仏の子よ、利益を得ようとする悪心から、策謀して国を動かし、軍陣に身を投じ戦争を起こして征服し合い、もって数しれない人々を殺してはならない
(『梵網経』)
刀杖などの武器を使わないで、常に正しい智慧に基づく方法・手段によって、もろもろの悪を遠ざける
(『大般涅槃経』)
というのがブッダのメッセージでした。私は「仏が歩まれるところはどこもみな、その教化をうける。国内は平和で、日月は清らかに明るく風雨は時宜を得ており、災難は起こらず、国は繁栄し、国民は安らかな生活をおくり、軍隊や武器を用いることがない」(『大無量寿経』)という経典の「兵戈無用(ひょうがむよう)」という語を特に心に刻んでいます。
これが仏教者のめざす世界です。
このようなことを書くと、必ずいわれることがあります。「それは理想論ですよ」と。私はそんな時、近代日本の著名な仏数学者、教育者である高楠順次郎の「理想をもたない者は必ず堕落する」という言葉を想いだします。
こんにちは大人が「夢」を語らなくなった時代だといわれます。同時に「理想」を語ることのない時代といってもよいかも知れません。まさに、時代の閉塞です。
「現実に法を合わせるのではなく、法に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは法に敬意が払われない社会の中では、法はいつでも理想論なのである」(平川克美「9条、理想論で悪いのか」朝日新聞2007年1月13日)という指摘があります。
一切の戦争を放棄すると誓った憲法のもと、戦後「国権の発動」によって人を殺すことをしませんでした。また殺されることもありませんでした。この事実を忘れてはならないと思います。そのことを見失い、緊張する国際情勢のもと、「いつでも戦争ができる国づくり」がなされているように私には思えます。そのための憲法改悪です。そして、現在の青少年問題などに便乗して国家のためになる、いつでも国のためにいのちを捨てることのできるような、素直な子供づくりのために、さきの教育基本法改正がなされたとわたしは理解しています。
最近、高齢の方の戦争を懸念する投書を多く見かけます。さきの戦争の被害ばかりがいわれる中、「語り継ぎたい勝ち戦の悲劇」として「優位に戦を進め、相手を殺傷し捕らえ苦しめた反省ももっと語るべき」とある投書は述べていました(「朝日新聞」2005年6月29日) また、『徴兵も強ち悪とは言い切れず地べたに座る若者見れば」という朝日歌壇の投稿に関して、「彼らを軍隊に入れればどうにかなるというのは短絡すぎないか。
兵隊は人間を戦う道具につくり替える場であり、若者を人間として教育する場てはない。若者をだらしなくしているのは日本の社会なのだから、立ち直せるのも社会が責任を持って行うべきではないか」(「同」2006年8月4日)と指摘した人がいました。
私の周囲にも若者を鍛えるために軍隊をという人が多くいます。悲しくなります。そんな時、この投書に触れて私はこの方の健全さに感銘を覚えたものでした。芥川龍之介は、『侏儒の言葉』の中で「軍隊の仕事はまず人間から理性を奪うことである」と記しています。まちがっても若者教育の場として「軍隊」を、というようなことを考えてはならないと思います。
戦争を禁止ずる政府を
元防衛庁局長で加茂市長の小池清彦氏はイラク特措法廃案を求める要望書を多方面に送り、自衛隊の派遣は海外派兵となり憲法違反であると訴えつづけ、防衛庁のOBその他多くの人々の賛同を得たそうです。氏は憲法改正論者であり、強い軍隊を持つべきであると考えていた人です。しかし、米軍と一緒に戦争をする中で憲法9条の意義にあらためて気づいたそうです。「『9条がなければ朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争に日本は全面参戦していた。日本人が世界の人々に平和を愛する国民として敬愛されることもなかっただろう」(「朝日新聞」2003年11月30日)と述べ、平和憲法は日本の宝。憲法を守り、海外に派兵しないことは、先の大戦で亡くなった方々たちが一番望んでおられることでもあるはずだと言っています。(取意)
イギリスの王立防衛大に留学し、防衛庁防衛研究所長、教育訓練局長などを経てきた人の発言です。
泥沼化したイラク戦争。かつてのベトナム戦争と同しようなゲリラ戦となり、解決の兆しさえみられません。アメリカは戦費がもたなくなり、同盟国に参戦を求めています。憲法改悪という問題もアメリカのため、アメリカ発であるという側面をわれわれは看過してはならないと考えます。一連の行政改革もその背後にアメリカ経済の意向が強くはたらいているということも識者の指摘するところです。日本はアメリカの1つの州ではありません。国内のアメリカ軍基地の横暴などを目のあたりにするとき、私は日本は果たして独立国なのかと疑問を抱いてしまいます。
もう8年ほど前になりますが、オランダのハーグで、世界から100ヶ国、およそ1万人の市民と、国連のアナン事務総長、各国の政府代表などが集まり、「ハーグ平和アピール」という会議がもたれました。そのとき、「公平な世界秩序のための基本十原則」が発表されました。その第一に、「各国議会は、日本国憲法第九条のような、政府が戦争をすることを禁止にする決議を採択すべきである」とあります。現行憲法は日本人よりも外国の、戦争に苦しみ、傷ついているこころある人によって評価され、支持されているということをわれわれはもっと知るべきだと思います。私がアメリカに行った時、一人の青年が私に言った言葉を忘れることができません。
彼は「目本の憲法第九条は素晴らしいものです。世界で唯一の世界に誇れる憲法だと思います。なぜ日本人はそれを軽視するんですか」と言いました。ベトナム戦争が終わって10年ぐらい経過した時のことです。
私はよく「仲間意識は仲間はずれをつくる」と言います。仲のいい仲間同士の語らいなどは、はたから見ていても気持ちのいいものです。しかし、その仲間意識には仲間以外の者を寄せつけない排他性があります。私は「同盟国」というものをあまり信じていません。なぜならそれは非同明国の国を疎外し、そこからさまざまな憎悪、争いが生起し、それが戦争につながることも多いからです。
武力による威嚇は緊張関係を生み出すことはあっても、決して和平につながることはありません。断ちがたい暴力の連鎖へとつながっていきます。武力によらない平和づくりは並大抵のことではありません。
「平和を創るには智恵と勇気と忍耐が必要です。闘っていのちを落とす勇気よりも〈ノー〉と言う勇気、〈別な方法〉を模索する智恵、そしてジッと我慢する忍耐と度量」「地域や国がその力を持てば、今よりもっとハッピーになるはず。その気にさえなれば、戦争以外の解決は可能なんですね。もう1つの世界は可能なのです。」(『禅の友』)2006年12月「戦争は答えじゃない」いちだ まり)
戦争の悲惨さを見抜く目
今こそ、全人類が「平和の創造」に向かって動くときです。20世紀が戦争の世紀といわれ、21世紀こそと思いながら、世界は相変わらず、差別、貧困、戦争のるつぼの中にあります。世界各国で戦火が上がり、多くの犠牲者がうまれています。仏教に生きる者の信仰力、智慧力が今あらためて問われています。安倍首相は、国のために役立つ青少年をつくるために教育基本法を改正し、お上のいうことにたてつかず、国のためにいのちを捧げ、1億の人がこころを1つにしていつでも戦争のできる国にするために憲法改正を試みています。
母と婚約者を残し日本で最初に戦犯として処刑された由利敬は26才でした。軍国少年として生きることが国のためであると信じて、疑わなかった。一筋の道でした。軍隊でスピード出世した彼は若くして大牟田捕虜収容所長となったことが刑死につながりました。彼の死後、母のツルさんは「息子を殺したのは私です。愚かな母の大罪です」と言いました。皇国の軍人として生きることだけを教えてきた母。それにこたえることが孝行の道と信じ26才で刑死した息子。当時「国が悪い、国にだまされていた」という人が殆どでした。そのような中で「愚かな母の大罪」と言いました。それは戦争の誤りと悲惨さを見抜く眼を持たなかった自己に対する深い懺悔と息子に対する謝罪の言葉でした。60年以上たった今も戦争の癒えぬ傷を抱いて生きている人が無数にいます。
最後に私が感銘を受けたある投書(朝日新聞)を記して筆を擱きます。
「父を始め無数の人々の死によって手に入れた平和憲法を、今変えるという。もし変えるなら、私の父を生き返らせてほしい。それからにしてほしい」
(参考「仏教と憲法9条」念仏者9条の会編。広島県三次市東河内町237西善寺内。私も呼びかけ人になっている会ですが、よくまとまっているブックレットです。「佼成新聞」2005年12月11日号の憲法改正を扱った特集記事は、宗教関係の新聞紙誌ではもっともよく整理されているといってもよいものです。)
「大法輪」2007年6月号より