講演 「原発と原爆」 ⑤ビキニ事件とアメリカのプロパガンダ

アメリカの原子力委員会は核兵器の政策・実験・平和利用をすべてコントロールするが、トーマス・マレーはビキニ水爆実験の責任者であった。

54年3月にビキニ水爆実験が行われ、第五福竜丸が被爆した。それ以外にもたくさんのマグロ漁船がいて被爆しているが。第五福竜丸が被爆したことで多くの日本人が反応した。

特に東京杉並区の主婦を中心として核実験反対運動を起こし、日本の人口の四分の一に当たる二二〇〇万の署名を集めている。

この引きにの事件はアイゼンハワーが「平和利用」を打ち出した直後の事件であり、これでは日本人は受け入れないことは明白あったので、アメリカは何らかの対応手段を取らねばと考えた。

そこで第一に、まずは被爆者の人達に平和利用を理解させようとした。被爆者が平和利用はよいことだと言えば大きな宣伝になる。

そのためトーマス・マレーは核の犠牲になった人達こそ、まず、原子力の利益を受ける資格が あると広島に原発建設を提案した。また55年1月には下院議員のシドニー・イエーツが連邦会議で広島に日米合同の商業用原発を建設するという提案をし、ア イゼンハワー大統領にも提案の手紙を送った。その中で、広島を原子力平和利用のセンターにする。病院を建てるよりは原発を建てることの方が有益だと主張し ている。

この提案に対して、広島の人は驚くべきことに次々に賛同を示した。冬至の浜井市長は「医学 的な問題が解決されたなら死の原子力を生のために利用することは大歓迎だ」。次の渡辺市長は「他が手をあげるより前に、我々が早く手をあげた方がよい」広 島大学の長田新は「米国の紐付きでなく、民主的な独自で開発するならよい」等、彼らは被爆者であるが次々に賛成していったのである。

少ない反対者の中で広島大学の森瀧市郎は「何よりもまず原爆で苦しんでいる広島の犠牲者の治療と生活の両面にわたり面倒を見るべきだ。また原子炉があれば戦争が起きれば、また広島がターゲットになる」と反対していた。

では、アメリカは本気で広島の原発建設を考えていたかというとそうではなかった。当時のホワイトハウス、国務省は最初から明確に反対していた。アイゼンハワーも反対していた。

これをするとアメリカが原爆を落としたことに罪意識を感じていると認めることになる。さらに、広島に原爆を落とし今度は原発を造り廃棄物のプルトニウムをアメリカに持ってきて核兵器を造ったら世界中から批判されるとはっきりと反対していた。

つまりこれはプロパガンダであった。被爆者も賛成しているということを宣伝しさえすればよかったのである。結局、55年12月にはこの話は立ち消えになる。アメリカの思い通りになったのである。

「原子力平和利用博覧会」

アメリカは第二に、日本人の考えを変えさせようとした。これが55年末から56年にかけて行った「原子力平和利用博覧会」であった。これを主催したのが読売新聞社であった。株主は正力松太郎である。これはCIAの心理作戦であった。

この博覧会は、当初は広島で最初に開催する計画であったが、結局まず東京で開催し、名古 屋、京都、大阪、広島、博多、札幌、仙台と巡回した。広島の開場は今の原爆資料館で、何と資料館の展示物の全てを一時移して三週間にわたり開催し八か所合 計100万人を集めるに至った。

展示物は医療用の癌治療アイソトープの模型、放射線の農業利用、食品利用、工業開発など多種多様のものであった。中には原子力飛行機というあり得ないものもあった。原子炉は大量の水で冷やさなければならないのに飛行機への搭載は不可能である。

パンフレットはカラー写真や絵をふんだんに使い、白黒がほとんどの当時からすれば目ひくものであった。また広島だけ特別な扱いで、展示品の中より希望する展示物の贈呈を受けた。この博覧会を通して、核技術は素晴らしいとすっかり思い込まされたのである。

「博覧会」は日本だけでなく世界中の親米国で開かれた。インドのネールは核兵器に猛烈に反対していたが、これで変わってしまった。今、インドは核兵器を持っている。

広島には50年代「アメリカ文化センター」が建設されていた。そこで様々な宣伝をおこなったが、ディズニーのアニメで平和利用を宣伝し、その映画を貸し出していた。これは広島だけの話ではなく日本全国で読売新聞や日本テレビの宣伝により平和利用が広められていった。

先の杉並の主婦たちの核実験反対運動は平和利用賛成であった。核実験には反対であったが、平和利用には賛成し進めることを主張していた。このように原子力は、将来のためには必要不可欠だとすっかり洗脳されていた。

55年8月の第一回原水禁大会での広島メッセージには、核実験は反対、平和利用は推進となっていた。

日本の物理学者も問題であった。日本の有能な和解物理学者は戦地にも行かずに生き残った。ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹を始め彼ら科学者は、平和利用にすんなり賛同し、原爆の開発に関与したことも一切語らず反省もなかった。世間も科学者を責めることはなかった。

世界的にも同じ傾向であった。たとえば、バートランド・ラッセルとアイン・シュタインの核兵器廃絶宣言に賛同する科学者が「バグウォッシュ会議」を創るが、核兵器はだめだが平和利用はよいと主張していた。

冒頭のオットー・ハーンも実はドイツの平和利用博覧会では協力していた。このように平和利用は世界的は運動としてアメリカの政策のもとに広がっていった。

日本の核兵器製造の思惑

日本での「原子力平和利用」ということは、実は核兵器を造りたいという思惑と密接に結びついていた。その中心が日本の平和利用のための予算を最初に付けた中曽根康弘である。

アメリカは彼を将来有望な政治家になるだろうと見込み、ハーバード大学に呼び、キッシン ジャーのもとで教育を受けさせた。その時に中曽根は日本も核兵器を持たなければならないと確信したようだ。さらに自由主義圏の科学者もアメリカに呼んで原 子力技術を教えていた。日本の科学者も当然参加していた。

その結果、原子力の平和利用は、同時に核兵器生産技術の拡散に繋がっていった。核兵器を造ることと原子力を動かすことは一体のものだからである。

近年、アメリカで発見した資料には、55年に日本が原子力の平和利用に調印した段階でアメリカの原子力委員会は「日本は十年後には核兵器を製造する能力を持つ」とはっきり明記していた。

中曽根はアメリカで学んでいた日本人科学者に日本で核兵器はできるか、できるとするといつ できるか質問をしていた。54年3月に予算を付ける時、中曽根と同じ改進党の議員は、予算委員会で新兵器(核兵器)の利用について質問している。平和利用 の最初の予算を付けた時、もう核兵器のことが言われていたのである。不思議なことに当時の社会党も共産党も何も言わなかった。