「科学の原理と人間の原理」⑥

日常のすぐ隣に存在する核との矛盾

今、五点ほど挙げました。①核の不安定。 ②核の要求する速さ。 ③実験ができない。 ④誤りが許されない。 ⑤時間が長すぎる。 ということです。これらはすべて、人間が普通に生き生活する論理と原子力との間の矛盾なのです。これがもし、全然別の世界のこととして存在するなら問題はありません。しかし原発は具体的な存在として日常のすぐ隣に存在しているわけです。

核が核だけで閉じてくれなくて、非常に奇妙に人間に接近せざるを得ない。人間の方はおおよそ核とは相容れない生命を持ち時間の感覚をもつ、そういう存在ですからどうしても矛盾がある。私は核の現場を歩いてきて、この所が一番耐えられなかった。自分が人間として生きようとした時に、どうしてもこの技術とは相容れないと感じたのです。

それで原発に反対し、核のゴミを乱暴に捨てさせないために私のできることをやっていきたいと思いました。私の営みとして放射能化学を学んできた責任をとるためには、大学や企業の中にいてプロとしてやろうとすると見えるものが見えなくなる。

実際に人間が生きる場、生活する場から、核の問題を自分のもっている専門ということで生かして逆の側からみていく作業を自分の問題としていこうと思いました。

 

別の論理がまかり通る ―合理性の強制―

わざわざ大学を飛び出して私の問題として十五年間やってきたのは、人間という立場から科学をやりたいということです。

今の社会が仕組まれている論理構造は、本当に人間として生物としての論理ではない論理がまかり通ってきている。その流れに人間としての原点からどこまで抵抗していけるのか。これは全く皆が共通する問題でもあります。

私の経験から言えば、人間というのは合理性で割り切り、数字に還元できる生きものではない。私は合理性の強制と言いますが、原子力をやらされると合理性で割り切らざるを得なくなる。原子力に反対しようとすると、いっぱしの専門的な議論を身につけて、論理で勝たないとダメになってくる。本当はそんなものでないはずです。素朴な感情から私はこう生きたい、嫌なものは嫌で本当はいいはずです。

合理性の強制というのは、いつの間にか自分も合理主義的な形で考え、生きていかなければならないとなってしまっていることです。

 

生命は自分だけのものではない

人間というのは科学的にいうと先が見えないものです。人間の知性では十年先二十年先は見とおせません。科学技術に関しては人間の知恵はそんな先に及ばない。そういう生き物ではないのです。もっと違うところに人間の本質がある。科学的論理の世界ではないところ、生命という観点ですごく広い大きな世界に繋がっている。

生命は個としての生命であると同時に宇宙の長い歴史の中の一通過点としての自分を生きているのであって自分より前もあったし後もある。自分の生命は自分だけのものでなく、世代を超えたものだという気がします。

 

共生の科学へ

今までの科学は突出することを目的とした科学。突出の科学と言っていますが、とにかくより強くより早くより大きくという突出することを目的にしていた。その結果、自然界の中で人間だけが突出してしまった。そのことが人間自身を苦しめている。さらに、科学技術を享受する人間と享受しない人間の差別も作ってきた。

この科学に対して人間の原理の優位をということを私は言って来た。科学は人問が作り出したものだから、人間か制御できると考えるのは非常に楽観主義すぎる。科学そのものも変わる余地がまだまだある。突出の科学ではなく共生の科学という、生命と共にある科学という方向にどこまでいけるか期待している。

その場合こういう枝術が望ましいということもありますが、技術の問題だけでなく大事なのは自分の生命、自分の営みを単に自分だけの問題として考えるのではないような次元で科学を考えていけないだろうかと常々思っている。

 

死せる者の声を自分の声として

私はこの頃、死者と共に生きるという生意気なことを言います。それは核をやってきた人間にとって、広島、長崎の被害で死んだ人達はまだ死にきれなくて、その者がこだましているような気がするのです。 核の被害者の声をどれだけ自分の声として発言できるかという意識があります。

湾岸戦争で原油まみれになった海鵜、ペルシャ鵜の写真がよく写ってますがこの海鵜は声を発することができない。あの声をどれだけ自分の声として発せられるか、人間はそういう責任を背負っていると思うのです。それはまた、未来の世代に繋がってくる。

今、未来の世代に我々は大変なものを残そうとしていますが、その未来の世代の声を今どうやって私達が発せられるのか。これは世代を超えた共生。死者との共生。未来との共生です。

最近、自然との共生は盛んに言われるようになってきましたが、そういう時間の流れ、宇宙的な広がりの中での共生、そういう概念の中で科学的な営みがどこまでできるのかというのが問われている。

そういうところをコツコツとやっていけたらなと、自分で出来ることは限られていますがやっているのが私の現状です。

私自身がこんなふうに考えていて、こんなふうに生きているというレベルでのお話としては話すべきことは話したようです。

(終)

 (高木仁三郎講演録『科学の原理と人間の原理』より)

(文責事務局)